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ジャズベースの歴史

ジャズ・ベースの歴史は意外と古い。17世紀に登場したウッド・ベース(コントラバス、ダブルベース)は、1890年代にはラグタイム・バンドやストリング・バンドで使われるようになっていた。そして「史上最初のジャズ王」と呼ばれるニューオリンズ生まれのコルネット奏者、バディ・ゴールデンもこのころにはベース奏者をバンドに加えている。
1894年、ゴールデン・バンドを捉えた写真の右側に写っているボブ・ライオンズがそれだ。彼がジャズ会最初のベースの奏者の一人であったことに間違いはない。しかし録音が残っていないので、どういうプレイをしていたかは定かでない。当時を知るミュージシャンの証言や研究家の意見などから、2ビートの強拍にコードの音を弓で鳴らした、と推測するのが一番妥当ではないかという話だ。このバンドには(当時のブラスバンドで対応されていた)チューバが使われていないので、チューバの代用としてベースを導入していたところもあるのだろう。

そしてもうひとつ、個人的に気になるのがドナルド・バード(tp)の「ブラック・バード」(Blue Note)ジャケットに使われている写真だ。これは1897年、テネシー州ノックスヴィルで行われたダンスパーティーの模様なのだが、左後方の奏者が弾いているベースにはフレットがついている!残念ながら奏者の右手が膨れているので弓弾き(以下アルコ)が指弾き(以下ピチカート)かわからないが、フレット付きの楽器である子をする話もあまり聞いたことがないし・・・・・・。

目次

アーリー・ジャズのベーシスト達

史上最初のジャズ・レコーディングは1917年、オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド(ODJB)がおこなったビクター吹き込みである。このバンドはコルネット、トロンボーン、クラリネット、ピアノ、ドラムス(実際はウッドブロックに毛が生えた程度のもの)編成であった。しかし4年後、1921年(22年せつは改められた)におこわれた黒人ジャズ・バンド初のレコーディングにあたるキッド・オリー(tb)の「オリーズ・サンシャイン・オーケストラ」ではエド・ガーランドという奏者がベーシストとして参加している。また22年にはニューオリンズ・リズム・キングスのセッションでスティーヴ・ブラウンがベースを弾いている。このあたりが録音として知ることができる最古のジャズ・ベース・プレイである。またビル・ジョンソン、ジョン・リンゼイ、アル・モーガンがこの時期を代表するベーシストといえよう。リンゼイはジェリー・ロール・モートン(p)のレッド・ホット・ペッパーズで活躍し、アルコだけではなく、ピチカートによるいわゆるウォーキング・ベース(後述)の創始者の一人にも数えられる。同じころ、1892年生まれのジョージ・フォスターは後年「パプス」(オヤジの意と呼ばれることになるが、彼もキング・オリヴァー(cor)やルイス・ラッセル(p)のバンドなどで頭角を現してきた。20年代後半から、徐々にベースを入れたバンドの録音が増えていく。
デューク・エリントン(p)ウェルマン・ブローというニューオーリンズ出身のベーシストを自楽団に起用した。アルコとピチカートを併用しているが、スラッピング(弦に指を叩きつけ、さらに弦ひっぱり、それを指板 に跳ね返すことによってアタックの強い音を出す)による強烈なピチカートは75年の時間を超えて今生々しい。ベース・アンプはおろか、PAという概念もなかった時代、大きな道響かせるにはこれが最善の奏法だったのだろう。
ルイ・アームストロング(tp・vo)も30年あたりからベーシストを入れた録音を行うようになった。また29年にはジャズ・ベーシスト初のリーダー・セッションがウォルター・ペイジ率いる「ブルー・デヴィルズ」によって行われてる(vocalion)。ペイジは1900年生まれ、ベニー・モーテン(p)楽団出身、「ブルー・デヴィルズ」を解散後モーテンの許に復帰し、余曲折を経てカウント・ベイシー(p)楽団でベースを担当する。先に触れた29年の録音では残念ながらベースの音はあまり聞き取れないが、PC と演奏したものを聞くと4ビート的なプレイ(四分の四拍子の各拍を均等に弾く)、いいかえればウォーキング・ベースのスタイルが「確固たるもの」として演奏されているのが分かる。いまに続くジャズ・ベースの奏法の基本がこの辺りで確立されたといってもいいだろう。

30年にはジョン・カービーがフレッチャー・ヘンダーソン(p)楽団に入り、この名門も遂に「ベース」を導入する(カービィは当初、チューバも兼用)。カービィは37年に事故のセクステットを結成、ベーシストがリーダーとなったグループとしては例外的なほどの成功を収めた。そして36年にはミルト・ヒントンがGギャップ・キロウェイ(vo)楽団に加入。39年に当時としては画期的なベースの フィーチャリング・ナンバー「プラッキング・ザ・ベース」が録音された(vocalion)。また30年代後半にはスリム・ゲイラード(g・vo)とのコンビでスラム・スチュアートが登場。アルコとスキャットのオクターブ・ユニゾン(ボウイン・シンギン・スタイル)で人気を博した。

ジミー・ブラントン登場

にわかに活気づいてきた ジャズ・ベース界に最初の「革命」が起こったのもやはり、30年代後半のことだ。ジミー・ブラントンの出現である。フェイト・ マラブル楽団のおそるべき少年ベーシストは、39年にデューク・エリントン楽団に迎えられた。ブラントンの偉大さについては僕が語るのもおこがましいのだが、とにかく彼以前に八分音符や十六分音符をプレイに混ぜ、歌うようなベース・ラインとメロディアスなソロを展開したベーシストはいなかった、といっていい。そしてそれが、これ以上ないといえるほどの力強く逞しい音色で繰り広げられるのだから、本当は彼は彼に選ばれたベーシストだ。エリントンの創造意欲は俄然、高まり、デュオ(ピアノとベースが対等のデュオ演奏なんて、それまで存在しただろうか)、コラボ、オーケストラなどさまざまなフォーマットでブラントンのベースをフィーチュア。ベース・ソロにアルコをこれほど取り入れたのもブラントンが初めてだろう。42年に24歳でなくなってしまうが、文字通り革命児であり、その重要性は21世紀、さらに増していくに違いない(ジャズは天才の音楽だった、ということを思い出してもらう意味でも)。ブラントンの他にも、テディ・ウィルソン(p)ブランズウィック・セッションで見事なプレーを披露するイスラエル・クロスビー、ボブ・クロスビー楽団のボブ・ハガードも大変にセンスの良いプレイヤーとして記憶したい名前だ。また40年代中頃にはアル・マッキボン、オスカー・ペティフォード、カーリー・ラッセル、トミー・ポッター、ネルソン・ボイド、ジョン・シモンズ、パーシー・ヒース、チャールズ・ミンガス、レイ・ブラウンなどが相次いで売り出した。彼らに共通しているのは主にレコードでブラントンのプレイを聴いて啓発されたことで(ミンガスの師匠はレッド・カレンダーだが)、それぞれがブラウンをを糧として独自のサウンドを追求していくことになる。ブラントンはベースを「かっこいい楽器」として認知させた史上最初のミュージシャンなのかもしれない。そして彼ら「アフター・ブラントン」たちのベース・ラインは、ビバップとよばれる革命的なジャズサウンドに見事に適合するものとなった。ちなみビバップとは、いわゆるダンジャズの最初の形と言うべき「現象」だと考えてほしい。最初は文字通り前衛であったが、40年代後半には穏便な形でベニー・グッドマン(cl)楽団やウディ・ハーマン(cl)楽団に採り入れられ、大衆に広まった。ハーマン楽団よチャビー・ジャクソン、スタン・ケントン(p)楽団のエディ・サフランスキーなども40年代を代表する名手だろう。

名ベーシスト豊作の時代

50年代はテープ録音が主流となり(そlまではディスクロックオンであった)、LPが実用化され、ハイ・ファイ(ハイ・フィデリティ)システムやって録音技術が向上、ステレオ録音も普及するなど、レコードの収録/.再生システムが長足の進歩をとげたディケイであった。同時にジャズにおけるベースはさらに重要な楽器となった。40年代新人も50年代には大御所格になった。ミンガスはロサンゼルスからニューヨークに進出して作曲/編曲/ベースが一体となったすさまじい音を演出し、プランはオスカー・ピーターソン(p)とのコンビでウォーキング・ベースにさらに磨きを掛けた。ペティフォードはハリー・ババシンの影響かチェロをピチカート楽器として応用し、自らの、オーケストラで、ソロを大々的に披露した。ヒースは「モダン・ジャズ・カルテット」の一員として、複雑なベース・パートを、スイング感を失うことなく見事に演奏した。

新人プレイヤーも多く登場する。西海岸からはボブ・ウィットロック、カーソス・スミス、ラフル・ペーニャ、レッド・ミッチェル、リロイ・ヴィネガー、カーティス・カウンス、マックス・ベネット、モンティ・バドウィッグなどが頭角を現した。

同地白人モダンジャズの種糖的な存在であった、ハワード・ラムゼイもベーシストだ。ニューヨークではウェンデル・マーシャル(ブラントンの親戚筋にあたる)、アーノルド・フィシュキン、テディ・コティック、ヴィニー・バーク、ビル・クロウ、ピーター・インド(イギリス出身)、アール・メイ、ジョージ・デュヴィヴィエ、メイジャーホリーなども売れっ子だったといっていいだろう。50年代後半ば、フィラデルフィア、デトロイト、シカゴといった地方都市の若手ミュージシャンが一気に参入してくると、ニューヨークのジャス・シーンは一層豊かになった。彼らの志向する音楽は大まかに「ハードバップ」と呼ばれるが(激しいバップ、という意味ではない)、そこで大活したのがポール・チェンバース、タグ・ワトキンス、サム・ジョーンズ、ウィルバー・ウェア、ジョージ・モロウ、ヘンリー・グライムス、ジミー・メリットといったプレイヤーたちだ。彼らの何人かにはリーダー作を吹き込むチャンスもあった。中でもチェンバースの57年録音「ベース・オン・トップ」(Blue  Note)はジャズ・ベースの史上に残る作品だ。アルバム単位でここまでベースを、しかもピチカートとアルコ両面で、フィーチュアしたレコードは、まぎれもなく史上初だった。アルバム単位でここまでベースを、しかもピチカートとアルコ両面でフィーチュアしたレコードは、まぎれもなく史上初だった。しかもチェインバースのステイタス(当時マイルス・デイヴィス・バンドのメンバーだった)と実力があってこその話だろ。以降、現在までリーダー・アルバムを作るベーシストの多くが「ベース・オン・トップ」の幻影に悩まされているはずだ。

もちろん、地方土地のベーシストが皆 NY に来たわけではない。シカゴではマラカイ・フェイダース、ドナルド・ギャレット、エルディ・ヤング、リチャード・エヴァンス、デトロイトでは、ハーマン・ライトなどが活動を続けていたし、ボストンでもジョン・ニヴス、チャック・イスラエルズといったプレイヤーが着実に力をつけていた。

スコット・ラファロとロン・カーター・ジミー・ブラントンの登場から20年をたった50年代末、ジャズベース界にはふたたび「革命」が起きる。スコット・ラファロの登場であるソロイストと会話するようなベース・ライン、すべての音域を使いこなしたソロ(特に高音部の雄弁なこと!)、バンドをひっぱっていくようなビートの推進力、何も最高峰であり、何よりも感覚が「新しかった」。「ウッド・ベース」はまたしても、最先端のかっこいいジャズ楽器となったのだ。彼の偉大さについて書くのも実におこがましいのだが、とにかく、驚異的な耳の良さ、頭のキレっぷりが巻き起こした奇跡の演奏、というしかない。そんなラファロもブラントンと同じく、若くして亡くなった(25歳)ラファロにインスパイアされたプレイヤーは現在まで、非常に多く存在するのだが、(実は模倣にすらなっていないんだが)、あのウォーキング ・ラインを引き継いだ者は誰もいないのではないだろうか。ラファロの友人で、ともにアイデアを交換することも多かっただろうチャーリー・ヘイデンにこそ、ラファロの魂は生きていると僕は確信している(もちろんプレイは似ていない。真の本物は自分の世界を持っているのだ)。
60年代に開花したベーシストで、もう一人避けて通れない超 VIP がロン・カーターだ。本当に60年代のカーターはすごい。いくら褒めても絶対に過大評価になんかなりようがない。

61年に録音されたドン・スリート(tp)の「オール・メンバーズ」(jazzland)お菊人ポール・チェンバースの影響があまりにも強くて驚くが、62年のジョニー・グリフィン(ts)「ケリー・ダンサーズ」(Riverside)では馥郁たるベース・ラインで才能全開、翌63年にはマイルス・デイヴィス・クインテットに加入してハービー・ハンコック(p)、トニー・ウイリアムス(ds)とともに魔のリズム隊を構成する。現在4ビート・ジャズのひとつの原点がここにあるといっていいロンは70年代以降、リーダー活動も積極的に行うようになり、ピッコロ・ベースとういう小型の楽器をメロディ楽器として使ったり、楽器をアンプリファイドして音質を変え(音を「増幅」したのはローンが初めてではないが、「アンプを通した音」を自分のアイコンにしたのは彼が嚆矢では?)、ベースを大きく全面に出したサウンド作りで独創性をアピールした。この路線には賛否両論あるところだが、多くのベーシストに「前に出る」勇気を与えたことは確かだろう。もっとも僕は、マイルス・バンドの、ソロ一つとることなくウォーキング・ベース一発で総毛立たせたロンこそ最高だと思うが。50年代末にニューヨークに現れたジミー・ギャリソンも61年からのジョン・コルトレーン(ts・ss)との共演(=エルビン・ジョーンズのドラムスとのコンビネーション)よって新しいジャズ・リズムの形を示したひとりだ。エルブィンと渡り合ったベーシストといえば、もうひとりリチャード・デイブィスもう忘れられない。彼らの八面六臂の活動がこの時期にジャズを面白いものにした。65年に志なかばにして急逝したジョージ・タッカーも、強烈なアタックと轟音で衰えぬ人気を持つスタイリストだ。

そのほか、60年代に頭角を現したベーシストには、レジー・ワークマン、ボブ・クランション、アルバート・スティンソン、デヴィット・アイゼンゾン、バスター・ウィリアムス、ゲイリー・ピーコック、エディ・ゴメス、セシル・マクビーなどがおり、イギリス出身のデイヴ・ホランド、チェコスロヴァキア(当時)ミロスラフ・ヴィトウスもアメリカに移住しジャス・ベース界に殴り込みをかけた。デンマーク出身のニールス・ペデルセンは米国に住むことはなかったが、渡欧したジャズ・ジャイアンツと吹き込んだ数多くのレコードが米国に輸入されていた(たとえばMPSレーベルは、アメリカではプレスティッジからリリース)ことによって創立良くは衆知のものとなっていった。またアメリカ西海岸出身のバール・フィリップスは67年にイギリスへ渡り、即興を追求する欧州ベーシストたちの指標となった。

60年代も後半になると少なくないウッド・ベーシストがスタジオ・ミュージシンの仕事も兼ねるようになり(「ジャズで食う」ことがさらに厳しくなった時代であった)、場合によってはエレクトリック・ベースを手にすることが多くなった。ボブ・クランションも、リチャード・デイヴィスも、ロン・カーターも、ジョージ・デュヴィヴィエもスタジオの仕事をこなすことによってニューヨークで生活していく(音楽だけで家族を食わしていく)ことができた。

エレクトリック・ベース

エレクトリック・ベースがジャズの中で、その音楽的効果を「積極的に」発揮していくのはおそらく70年代初頭、スタンリー・クラークの登場がきっかけになるだろう。しかし、エレクトリック・ベースジャズ界に登場したのは、この楽器の出現とほぼ同時期のことである。
1951年、フェンダー社はプレシジョン・ベースを開発した(以下、フェンダー・ジャズ・ベース、アレンビック・ベース、フォデラなど「横型」のベースをすべてエレクトリック・ベース と呼ぶ)。この元祖は当時、ライオネル・ハンプトン(Vib)楽団にいたモンク・モンゴメリーだ。なんでも当初はハンプトンが持っていた試供品を弾いていたそうだが、持ち運びに便利で、アンプで音を大きくでき、管楽器と同じように振り付けをしながら弾くことができる(ハンプトン楽団は R &Bの名門であった)、それに壊れにくいというところがハンプトンのお気に召したようだ。
そしてモンク箱の楽器の草分けどころか、代名詞的な存在になった。ハンプトン楽団の同僚クインシー・ジョーンズ(当時はtp)もエレクトリック・ベースは強い関心があったようで、彼がアレンジしたアート・ファーマー(tp)のセッション(53年、Prestige)では効果的にモンクのプレイをフィーチュアしている。この録音は現在、「アート・ファーマー・セプテット」という輸入盤 CD で入手可能だ。独立後もモンクは「マスターサウンズ」、「モンゴメリー・ブラザーズ」といったバンドでエレクトリック・ベースを弾いた。弟のウェス・モンゴメリーがギターでしたように親指の実を使ったプレイだが、この弾き方こそ、当時数少ないエレクトリック・ベーシストにとっての定石であったようだ。また50年代半ばにはサン・ラ・アーケストラにウィルバーン・グリーンというエレクトリック・ベーシストも加わった。モンクは60年代以降、ウッド・ベースを多く弾くことになるが、それと入れ替わるように多くのプレイヤーが エレクトリック・ベースを手にしはじめたのもまたこの時期のことだ。
ジミー・ルイス、ボブ・ブッシュネルといったウッド・ベーシストもエレクトリックに転向し、キング・カーティス、サム・クックなどのセッションで太く固い音を響かせれるようになった。西海岸でマックス・ベネット、キャロル・ケイなどがウッドからエレクトリックに転向した。デトロイトでウッド・ベースを弾いてバリーハリス(p)などとビーバップを演奏していたジェームズ・ジェマーソンもエレクトリックに持ち変えてレーベル勃興期のモータウン・サウンドを支えた。彼に憧れて エレクトリック・ベース奏法を深化させたプレイヤーにはポール・マッカートニーがいる。ソングライティング同様、ベース・プレイにおいても彼を紛うのとなきイノヴェイターだ。また巨匠チャック・レイニーも60年代中期から様々なセッションで活躍した。ドラムスとのコンビネーションでバンド全体を気持ちよくさせるというベーシストの役割を、エレクトリック・ベースで最大限に昇華させたプレイヤーのひとりだろう。
ジェリー・ジェモット、ルイス・スタインバーク、ドナルド・ダック・ダン、ゴードン・エドワーズといった「バンドをグルーヴさせるベーシスト達も忘れるわけにいかない。先ほどポールの名前を出したが、ジャック・ブルース、ジョン・ウェットン、グレッグ・レイクなどもら「ロックの人」と分類されるとは思うけどらえれ・ベースのおいしさを引き出した名匠たちである。ウッド・ベース奏者だった前歴を持つジャックのリズムと主旋律の間にズカズカと入り込むようなプレイは、まさにチャールズ・ミンガスやスコット・ラファロの英知をエレクトリック・ベースの指板上に移し変えたかのようだ。スティーヴ・スワローはジャックの演奏を聴いてウッドからエレクトリック・ベースへの転向を決意したという。
そのスワローも、いまでは五弦のエレクトリック・ベースのピック弾きで誰にも真似できない世界を生み出している。90年代以降の彼はレコードでも、CDでも、生演奏でも、恐ろしく音質が一定している。僕は何度か彼の生演奏を聴いたことあるが、自己のサウンドへの、揺るぎなきこだわりが本当に強く伝わってきた。
70年代に入ると、いくつか老舗ジャズ・グループもエレクトリック・ベースを導入するようになる。ディジー・ガレスピー(tp)60年代半ばからこの楽器を使っていたが、やがてホレス・シルヴァー(p)いやソニー・ロリンズ(ts)も導入するようになった。四半世紀以上に渡ってトップ・エレクトリック・ベーシストのひとりに数えられているウィル・リーもホレス・シルヴァー・バンド出身だ。辞書一冊分に相当するであろう彼の華麗なキャリアは、今日もまたページを増やしているに違いない。シルヴァー・バンドではリーの先輩になるスタンリー・クラークは、ウッドもエレクトリックも自由自在に弾きこなす「両刀使い」の新人としてシーンに話題を巻き起こした。
プレイの範囲はスピリチュアル・ジャズからファンク、ロックに及ぶ。アート・ブレイキー(ds)からジェフ・ベック(g)まで対応できるベーシストをクラーク意外に探すのは難しい。チック・コリア(p)との「リターン・トゥ・フォーエヴァー」における超絶技巧は今もインパクト十分だ。アンソニー・ジャクソンも70年代始めに登場した。バディ・リッチ(ds)やチャルーズ・サリヴァン(tp)などに共演後、77年にリー・リトナー(g)を中心とする「ジェントル・ソウツ」に参加。卓越したプレイで、折からのクロスオーヴァー/フュージョンの人気ベーシストとなっていくのだが、その後、六弦ベース(本人いわくコントラベース・ギター)に専念し孤高の地位を確立した。スティーヴ・スワローと並ぶ「一音で識別できる」アーティストだと言っていい。音色にしろ、フレージングにしろ、まさに芸術と呼ぶべきプレイヤーがアンソニーだ。フレットのないエレクトリック・ベース、いわゆるフレットレス・ベースを認知させた第一任者としてアルフォンソ・ジョンソンも重要だ。ウディ・ハーマン楽団やキャノンボール・アダレイ(as)のグループで実力を培い、ミロスラフ・ヴィトウスに替わってウェザー・リポートのレギュラー・ベーシストに抜擢された。早くから「スティック」(後述)を導入したイノヴェイターでもある。その他、70年代中期から後期にかけて注目される エレクトリック・ベーシストとして、ボブ・ジェームズ(kb)がらみのセッションで大活躍したゲイリーアンディ・ニューアーク(ds)とのコンビでうねりまくったウィリーウィークス、西海岸の売れっ子として確固たる地位を確立しているエイブ・ラボリエル、ギターの奏者の片手間とは程遠い独創的なベース・プレイを聴かせるファル・アップチャーチの名前を挙げておきたい。クルセイダーズのサックス奏者ウィルトン・フェルダーのエレクトリック・ベースもサックス同様、悶絶モノの、素晴らしさだった。天はニ物を与える、とはまさにこれだ、(70年代クルセイダーズのスタジオ録音ではまず自分でベースを弾いて、後でサックスを重ねている)。ジミー・スミス(org)ほ「ルート・ダウン」(Verve)、グラント・グリーン(g)の「ライヴ・アット・ライトハウス」(BlueNote)という超弩級ファンク・アルバムのボトムを支えている張本人こそフェルダーである。

スライ&ファミリー・ストーン・スラッピング(チョッパーともいう)を一般化したラリー・グレアム、その奏法をさらに過激に、派手にした「ミスター・サンダーベース」ことルイス・ジョンソン、「ヘッドハンターズ」の核であるポールジャクソン、「タワー・オブ・パワー」のフランシス・ロッコ・プラスティア、ジェームス・ブラウン・バンドを「親分より目立ったから」という理由で退団となり(噂)、その後のジョージ・クリントン(vo)とPファンク帝国を築き上げるブーツィ・コリンズなどファンキー・メンもチェックしていただきたい。

そしてジャコ・パストリアス

70年代後半にになると、エレクトリック・ベース界にも大きな「革命」が起きることになる。75年、ウェザー・リポート3代目の正式ベーシストとなったジャコ・パストリアスの出現である。翌年には初リーダー作「ジャコ・パストリアスの肖像」(Epic)を発表、ベース(フレットレス)、作曲、そうそうたるゲストをまとめあげるオーガナイザーとしての手腕、その何でケタ外れのスケールの大きさを示した。どこからもジャコの音が漂い、ジャコの入っていない曲(があるのだ。このあたりも常識はずれだ)からでさえジャコの姿が立ち登ってくる。ベースをフィーチュアしつつも、「べースおたくのための作品」からは最も遠いところにあるという、まったく奇跡のようなアルバムだ。そこ奇跡をジャコは81年の「ワード・オブ・マウス」(Warner Bros.)でさらに深めた形で提示する。常人なら一生かかっても残せないであろう金字塔を、二つも作り上げてしまったジャコの輝きは、両アルバムの間に残されたすべて音源からもうかがえる。40年代半ばから、ニューヨークのジャマイカ地区でウェルドん・アーヴィン(kb)、レニーホワイト(ds)などと腕を磨いたマーカス・ミラーも、ジャコにショック受けたひとりだ。晩年のマイルス・デイヴィスの片腕であり、デビッド・サンボーン(as)やルーサー・ヴァンドロス(vo)からも絶大な信頼を得るマーカスは、ジャコはもちろん、ラリー・グレアムやジェリー・ジェモットなど、エレクトリック・ベースのさまざまな局面を集約したような演奏を聴かせる。しかも彼はプロデューサーでもあり、管楽器、鍵盤楽器などもこなす。恐ろしくコントロールされたプレイヤーにして、ジャコとはまた違った意味で天才肌の「キレ者」だ。ファンク・チューンではスラッピングも多用するが、ここまで下品でないスラッピングは、なかなか味わえない。彼の作品には常にジャズやファンクへの愛がほとばしり、ブラック・ミュージシャンとしての誇りがみなぎっている。80年代以降も エレクトリック・ベースはどんどん進化していく。さまざまな形の楽器が出回り、弦の本数も自由自在、フレットあったりなかったりで、エフェクトされたサウンドもごく当たり前となった。名前の羅列になってしまうが、マーク・イーガン、ビル・ラズウェル、ジョナス・エルボーク、リンカーン・ゴーインズ、バニー・ブルネル、パーシー・ジョーンズ、マイケル・マンリング、ミック・カーン、ジミー・ハスリップ、ジャマラディーン・タクマ、T・M・スティーヴンス、ネイザン・イーストなどは、それぞれが独自のサウンドを持ったプレイヤーだ。チャップマン・スティックという十弦楽器を自在に使いこなすトニー・レヴィンのサウンドもジャズ界には嬉しい「カウンター」だった。

「ウッドの音」が変わった

ウッド・ベースの方に話を戻そう。70年代になって売り出したベーシストにはジョージ・ムラーツ(当時のチェコスロヴァキア出身)、ルーファス・リード、レイ・ドラモンド、チャールズファンブローなどがいる。もちろんロン・カーター、サム・ジョーンズ、セシル・マクビー、バスター・ウィリアムスなどの旺盛な活動も変わることなかった。この頃になると、ウッド・ベースもアンプでつないで弾くことが一般化した。またレコーディングではライン録りも使われるようになった。70年代の4ビート・ジャズ作品と、それ以前の同系のディスクを聴きくらべればらベースの音質が異なっているのが判はるはずだ。弦高(弦とフレットの距離)(狭くして、より早く、より滑らかに弾き、その分、減少する音量はピックアップのお世話になる、というふうに、ウッド・ベース奏法は「体にやさしく」なっていった。先述したスタンリー・クラークの速弾きも、こうした「楽器の調整」があったからこそ可能になったのだろう。70年代、もっとも注目された新興レーベルの一つにドイツのECMがある。ベーシストであったマンフレート・アイヒャーがオーナーを務めるこのレーベルには現在までミロスラフ・ヴィトウス、デイヴ・ホランド、マーク・ジョンソン、ゲイリー・ピーコックといった大物が在籍した(している)。

またアリルド・アンデンセン、エバーハント・ウェーバー、パレ・ダニエルソン、アンデシュ・ヨルミンといった在ヨーロッパの名手を、日本やアメリカのファンに知らせる役割も果たした。

ジャズ・ベース・ルネッサンス

80年代のジャズ界における大きなトピックスとしてマイルス・デイヴィスの復活とウィントン・マルサリス(tp)の登場をあげる向きは多いだろう。とくにウィントンは「アコースティック・ジャズがかっこいい音楽である。また、決して儲からないわけではない」ということを、若い黒人たちを中心に直接・間接的にアピールし、彼らが潜在的に持っていたであろうジャズへの関心を高めることに成功している。

ウィントンの音楽を後ろ向きだという意見はある意味では的を得ているが、多くの若手ウッド・ベース・プレイヤーがシーンに登場した背景に彼の尽力は少なからぬものがある。「ウィルトン学校」で腕を磨いたベーシストにはチャーネット・モフェット、ボブ・ハースト、レジナルド・ヴィール、ロドニー・ウィテカーなどがいる。彼らはまた、ジャズ界に「ウッド・ベースの生音」を復活させる契機を作った。力一杯、楽器のボディを鳴らす奏法が戻ってきたのだ。 またウィントンの「母校」であるアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズはロニー・プラキシコ、ピーター・ワシントンなどを輩出した。

「両刀使い系」としては、チック・コリアのエレクトリック/アコースティック・バンドに抜擢されてスターダムにのし上がったジョン・パティトゥッチこそ究極のひとりだろう。ウッド、エレクトリックの、どちらかひとつだけ弾く仕事があっても常に両方楽器を持ち歩き、暇さえあれば練習していいという噂は信憑性ありすぎる。数年前よクラションのコントラバス奏者に改めて師事し、基礎を学び直したともきく。どこまで「うまく」なっていくのか、恐ろしいほどである。アラン・ホールズワース(g)から北村英治(cl)までを守備範囲とするデイヴ・カーペンターも要注意の両刀使いだ。信じられないプレイをウッド、エレクトリック両方で平然とおこなうブライアン・ブロンバーグはベースを、また新たな次元に引き上げた。現代4ビート・ジャズ界に「ウッド・ベースの生音」を広く伝える若き中心人物であるクリスチャン・マクブライドも、最近のリーダー作では「両刀使い系」であることをアピールしている。エレクトリック・フレッテッド・ベース、エレクトリック・フレットレス・ベースではエフェクターをかけることもあるが、ウッド・ベースはあくまでアンプラグドの生音でという姿勢は、実は画期的なことである(パティトゥッチかのウッド・ベースは基本的に生音というわけではない)。それぞれの持つ「色」すごく大切にしているベーシストという印象を僕はマクブライドから受ける。これはジェームス・ジナスにも共通していることだ。

クリス・ミン・ドーキー、アヴィシャイ・コーエン、ベン・アリソン、ベン・ストリートといったプレイヤーも各様のアプローチでウッド・ベースを鳴らしている。マーク・ジョンソン、ディヴ・ホランドといった重鎮も、さらに活動に磨きを掛けている。ヨーロッパではインゲブリクト・ホーケル・フラテン、フィリップ・アウグストソン、トービョウ・ゼッターベルグが言葉を失うほどすばらしい。そしてエレクトリック・ベースのほうでもジャコやマーカスのまいた種子が活発に発芽し続けている。ミシェル・ンデゲオチェロやマシュー・ギャリソン(ジミー・ギャリソンの息子)の出現に安堵したのは僕だけではないだろう。スクーリー・スヴェリッソンも絶対にはずせない。「両刀使い系」ではクリス・ウッド、マット・ペンマン、クリス・ライトキャップ、オマー・アヴィタルが猛烈だ。ジャズ・ベース界はこれからも、もっともっと面白くなっていくだろう。

ogp

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